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日 時 |
小島一里塚(調布市小島町)
市旧跡
小島一里塚
調布市小島町1−17
指定 昭和46年2月10日
ここは江戸時代時代の初めごろ、甲州街道に築かれた一里塚のあったところである。江戸日本橋を起点として、およそ六里(24キロメートル)の距離にある。一里塚は街道の一里ごとに、その目じるしとして道の両側に築かれたものである。たいていは塚の上にエノキが植えられ、遠くからでも望見できるようにして旅行者の便がはかられた。
ここにも樹齢200年余と推定されるエノキの大樹があって、その昔がしのばれたが、危険防止のため昭...
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2008/07/04 07:44 |
富士浅間神社(立川市富士見町)
富士浅間神社
ここに築かれた小高い塚は富士塚とよばれ、頂上に浅間神社がまつられています。
江戸時代、富士山の霊験にあやかって現世利益や病気平癒を願う「富士講」が盛んで、成人男子による富士登山が行なわれました。女性や子どもたちのように、実際の富士山に登れない人々は、富士に似せた塚を築いてこれに登ったといいます。しかし、立川(旧柴崎村)に富士講の話は残っていません。この塚の頂上から、富士がよくみえることから、このようによばれたという人もあります。
いずれにしても、江戸時代から地名として現わ...
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2008/06/30 09:26 |
日野の渡し碑(立川市柴崎町)
碑文 日野の渡し碑
立川観光協会 撰
関 頑亭 書
日野の渡しの出来たのは
いつの頃だか誰も知らない
江戸時代中期貞享年間
この地に渡しが移されたことは
確かであろう
かつて信濃甲斐相模への人々は
この渡しを過ぎると
遠く異境に来たと思い
江戸に向かう人々は
江戸に着いたと思ったという
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2008/06/30 09:23 |
中央線を渡る柴崎分水(立川市柴崎町)
柴崎村の飲料水や灌漑用水として、重要な役割を果たした柴崎分水は、元文2年(1737)、玉川上水より引かれました。柴崎村の人たちは貞享5年(1688)から、幕府に「柴崎分水訴願状」を提出しました。やっと許可になった大切な水は、江戸時代の柴崎村の発展に、大変役立ちました。この分水の取り入れ口は、西砂川の松中橋のたもとにあります。土地の微妙な高低差を利用して水路を設け、国営昭和記念公園を通り抜け、富士見町、柴崎町、錦町へと流れていますが、いまは道路の拡張などで、ほとんど暗渠となり、柴崎分水の流れを...
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2008/06/30 09:21 |
金比羅山(立川市砂川町)
立川市唯一のこの山がいつ頃築かれたのか、はきっりしませんが、安政年間(1854〜1860)に砂川村の名主砂川家が願主となり、頂上に「富士浅間」中段に「金比羅神社」その下に「秋葉神社」を勧請したと伝えられています。この金比羅神社は江戸時代に流行した富士塚ではないかといわれています。秋葉神社は遠州(静岡県)秋葉山にある火難・火難よけの神として古くから知られていますが、近世になってから徳川家康の命でご神体(三尺大権現)が小田原に移され、その土地の富士浅間の神と合祀されました。富士信仰との融合がはか...
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2008/06/29 07:18 |
旧立川町耕地整理記念碑(立川市錦町)
この記念碑は地域開発の念願をこめて先輩が第二耕地整理組合を結成し、昭和10年から昭和18年までの歳月をかけて現在のような道路が整備されました。そして、19年にその完成を記念して建てられた記念碑であります。今般、錦六会創立30周年にあたり地域の発展の礎を築かれた先人の功績を讃えこれを立てるものであります。
昭和56年2月15日
錦六会
(案内板より)
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2008/06/28 07:36 |
普済寺の首塚(立川市柴崎町)
東京都指定旧跡
立川氏館跡
所在地 立川市柴崎町四丁目 普済寺
指定 大正八年十月
今の立川普済寺の寺地はもと立川氏の居城跡で背を多摩川沿岸に面して眺望は広くひらけている。当時の土塁の跡は現在でも残っており堀割の跡も現存している。立川氏は武蔵七党の一つである西党日奉氏の支族で、立川宮内大夫宗恒がこの地にはじめて居城を構えたという。立川氏は天正の頃断絶したと思われ、それ以降寺域となった。なお当寺の建立は文和二年(1353)立川宗恒である。 なお、同寺境内の首塚は、不揃な五重石塔...
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2008/06/28 07:33 |
常安寺公園(日野市日野)
公園を含むこの付近一帯の土地は、古くから常安寺とよばれてきた。天文13年(1544)のころ、このあたりに光堂と呼ぶ仏堂のあったことが石田寺(市内石田)の縁起に記されている。常安寺という寺があったとすれば、この光堂のことではなかったとも考えられる。
(案内板より)
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2008/06/16 05:47 |
慶性門(東大和市多摩湖)
多摩湖が造られたとき、7集落161戸と3神社が移転を余儀なくされました。芋窪街道の青梅街道と新青梅街道の間にある慶性院もその一つで、真言宗豊山派白部山慶性院と号し、1601年に上貯水池に建立されたものです。元の本尊は薬師如来でしたが、真言宗正統の不動明王(38cmで室町末期か江戸初期の作の胎内仏を持つ)に代えられました。多摩湖上堰堤の北には慶性院の山門慶性門だけが今でも残っています。
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2008/06/15 07:03 |
関戸の盟約地蔵(多摩市関戸)
関戸古戦場跡
最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘三(1333)年新田義貞によって滅ぼされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、五月十六日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、六日後に首都鎌倉を征圧した。
多摩市教育委員会
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2008/06/13 06:18 |
大柳町の男井戸女井戸(青梅市大柳町)
むかし、旅の僧が、このあたりにさしかかったとき、のどがかわいたので近くの農家に立ちよった。農家に飲み水を求めると、庭で粟をムシロに干していた百姓の夫婦は、仕事の手をとめて、ふたりそろって畑の下のほうへおりて、遠方まで水を汲みにいったそうです。これを見て僧は水に難儀する村人を救おうと、そして、持っていた杖で畑のすみをトンと突いた。すると、水がほこほこと湧きだした。もう一ヵ所杖をつきたてると、そこからも水が……。これが、男井戸・女井戸で、旅の僧は、諸国を巡行されていた弘法大師だったといわれている...
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2008/06/11 17:20 |
青梅新町の大井戸(青梅市新町)
大井戸は、人が水口付近まで近づくための擂り鉢形の施設と水をくみ上げる筒井戸からなる漏斗状の形をしています。このような形の井戸は、羽村市のまいまいず井戸(都指定史跡)など、水の得にくい武蔵野台地等で構築されていますが、東西約22メートル、南北約33メートル、深さ7メートルの擂り鉢部と周囲の盛土からなる大井戸は、なかでも最大の規模をもつものです。
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2008/06/11 17:18 |
五日市鉄道大神駅跡(昭島市大神町)
五日市鉄道大神駅跡
この場所には昭和5年(1930年)から昭和19年(1944年)までの間、大神駅という小さな停留所(無人駅)がありました。東西の道路は、立川駅と拝島駅を結んでいた五日市鉄道(単線)の線路跡です。現在のJR五日市線の前身である五日市鉄道は、大正14年(1925年)4月21日、拝島・武蔵五日市駅間(11.1km)が最初に開通し、蒸気機関車が走りました。後に立川駅までの延長が認められ、立川・拝島駅間(8.1km)が昭和5年(1930年)7月13日に開通し、この駅も誕生しました。...
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2008/06/10 07:25 |
国鉄(現JR東日本)八高線列車衝突事故(昭島市宮沢町)
昭和20年8月24日午前7時40分頃、国鉄(現JR東日本)・八高線の列車上下線が多摩川鉄橋で正面衝突し死者105人(但し、戦後間もなくの混乱期であり正確ではない。それ以上とする資料もある)、負傷者150人前後の大惨事となった。八高線は東京都下の八王子市と群馬県・高崎市を結ぶ単線の路線。終戦から9日後の混乱期であり、食料を買出しに埼玉県や群馬県の農家に出向く乗客で車内は相当混雑していた。
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2008/06/10 07:22 |
花井の井戸(昭島市拝島町)
市旧跡 花井の井戸
昭和36年6月1日指定
この井戸は拝島町にある有名な三つの井戸のひとつです。このあたりは字名が「花井」と呼ばれていることでもわかるように、昔から花井の里と呼ばれていましたので、井戸の名もここからつけられたものです。どんな日照り続きのときでも井戸水は枯れることなく、近くの人から大切にされてきた井戸です。
昭和49年3月
昭島教育委員会
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2008/06/10 06:12 |
水神(昭島市拝島町)
九ケ村用水取水口跡
江戸時代以来、昭島、立川両市域の水田をうるおしてきた九ケ村用水取水口です。今のこる樋管は明治44年(1911)に築造され、水神の石碑も同年の造立です。しかし、昭和のはじめ、村山・山口貯水池の完成で水量が減り、取水が困難となりました。そのため、昭和8年(1933)下流約200メートルに、新たに用水樋がつくられました。
平成17年3月設置
昭島市教育委員会
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2008/06/09 18:32 |
九道の辻(小平市小川東町)
ここは昔から「九道の辻」と呼ばれています。この地名は鎌倉街道、大山街道、奥州街道など九本の道が交差していたところから生まれたものです。この「九道の辻」の鎌倉街道の南角に一本の桜の木がありました。季節には見事な花をつけ、往来の人々の目を楽しませ、人々からは「迷いの桜」の呼び名で親しまれてきました。この「迷いの桜」について伝えられるところによりますと、元弘3年(1333)5月、新田義貞が鎌倉攻めの際にこの「九道の辻」にさしかかり、どれが鎌倉への道であるか迷ったので、義貞は一本の桜を植えさせて、道...
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2008/06/09 06:38 |
小金井水田跡の碑(小金井市中町)
市内には最盛期には49haの水田があり、都内でも有数の米どころであった。しかし、昭和45年の収穫を最後に水田が姿を消した。翌年記念碑が建てられ、その下に米作の歴史が書かれた和紙や籾などを入れたカプセルが埋められている。
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2008/06/08 06:26 |
小金井神社の石臼塚(小金井市中町)
小金井神社の拝殿の左手に奇妙な塚があります。
「石臼塚の由来」の碑文が掲げられています。
「石臼は遠い昔、石器時代から我々に欠くことの出来ない生活の道具として親しまれて何千年となく使われてきた石臼も時により場所により変化を見せてきたが、この大戦後の生活様式の急変はついに顧みられないものとなり、いつとはなしに一つ二つ姿を消すありさまに、心ある人々はこの里に残る全てを集めて塚を造り、感謝をこめて、人と臼との久遠の別れとするものなり。昭和48年6月吉日」
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2008/06/08 06:24 |
貫井神社のひょうたん池(小金井市貫井南町)
創建は天正18年(1590)と伝わる旧貫井南の鎮守で、かつては貫井弁財天と呼ばれた。雨乞いをすると必ず雨が降るといい伝えられている。境内には清水が湧き、ひょうたん池に注ぐ。石橋、石坂の供養塔などもある。神社の前には「貫井プールの碑」が建っている。大正12年(1923)に青少年の体育向上を目的に、湧き水を集めて50mのプールが作られたという。ハケの上には縄文時代中期の貫井遺跡があり、隣接する三楽の森ではハケに沿った雑木林が大切に保護されている。
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2008/06/07 07:03 |
誓詞橋の碑(所沢市北野)
元弘3年(1333)に新田義貞は鎌倉に攻め入るため武蔵国に布陣をしき、幕府軍の桜田貞国らと衝突した。小手指ケ原古戦場にある「白旗塚」は、そのとき義貞が源氏の白旗を立てた所と伝えられています。また、かつてこの塚の北側にあった橋は「誓詞橋」といわれ、小手指ケ原の一戦を交える際に義貞が源氏再興の誓いを立てたところからこの名がついたといわれています。
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2008/06/05 07:34 |
三ツ井戸弘法大師(所沢市西所沢)
昔、弘法大師が諸国巡歴の折りに、この地に立ち寄ったさいに民家に飲み水を求めると、機を織っていた婦人が遠方まで水を汲みにいったそうです。これを見て大師様は水に難儀する村人を救おうと杖で三カ所の場所を示して、ここを掘れば清水が得られると村人に教えました。村人は教えられた三カ所を掘ると果たして清水が得られたと伝えられています。三ツ井戸は東川に沿って50メートル間隔で掘られ、現在ここに残る井戸はその東端のものであるといいます。少し奥には弘法大師をまつる小堂があります。このような古井戸が残っていること...
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2008/06/04 06:18 |
馬の水飲み場とお寺坂(羽村市羽東)
羽村駅西口より出て新奥多摩街道を過ぎ、禅林寺に向かう坂の途中、右手の道路沿いにあります。
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2008/05/29 09:14 |
久米川古戦場(東村山市諏訪町)
東京都指定旧跡
久米川古戦場
所在地 東村山市諏訪町二丁目付近
指 定 大正八年十月
北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永八年(1271年)の日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き…」とあって、上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった。
『太平記』によれば、元弘三年(1333)五月八日、群馬県新田町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のため挙兵した...
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2008/05/28 19:50 |
真照寺の如玄和尚石室(あきる野市引田)
真照寺は真言宗豊山派、 引田山金蓮院。あきる野市きっての名刹。開山は寛平3年(891)、義寛上人で、「真照」という僧名を名乗ったことから真照寺と名づけられた。延文元年(1356)関東公方足利基氏によって再建された。その後、享禄4年(1531)に火災に遭い、秋川南の日照山から、現在の地「静の郷」に移築された。現在の本堂は延亨3年(1746)に再建され,開山千年を記念して平成の大改修が行われた。その後方には室町期建立の薬師堂が静かに佇んでいる。現在は「引田薬師」として親しまれている。
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2008/05/25 06:40 |
京浜急行発祥地(川崎区大師駅前)
京浜急行大師線・京浜急行発祥地
京浜急行電鉄創立70周年を記念して、発祥の地である川崎大師駅に京浜急行電鉄鰍ノよって石碑が設置された。明治32年(1899)京急の前身の大師電気鉄道が京都電気鉄道、名古屋電気鉄道の続き日本で3番目、東日本では最初の電気鉄道として開通した。当初は六郷橋から大師停留所の2Km区間を路面電車が運行された。
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2008/05/19 06:49 |
蓮慶寺の旧赤門 (調布市布田)
蓮慶寺の山門の扉には三葉葵の紋章が輝く。日蓮宗大本山池上本門寺の末寺。三代徳川家光から御朱印地を下賜され、歴代将軍の菩提を弔う御朱印寺となり、赤門の造立と住職の乗駕が許された名刹である。
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2008/05/18 08:21 |
府中高札場(府中市宮西町)
東京都指定旧跡
府中高札場
所在地 府中市宮西町5−1−1
指 定 昭和4年10月
法度、掟書、犯罪人の罪状などをしるし、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高札といい、庶民の間に徹底させるためこれら高札を掲げる場所を高札場といった。これらは中世末期からあったが、江戸時代が最も盛んとなり明治3年(1870)廃止された。高札場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普段設置され、江戸には日本橋など6箇所の大高札場をはじめ35箇所に高札場があったという。
府中の高札...
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2008/05/13 07:01 |
立川氏館跡(立川市柴崎町)
東京都指定旧跡
立川氏館跡
所在地 立川市柴崎町4丁目 普済寺
指定 大正8年10月
今の立川普済寺の寺地はもと立川氏の居城跡で背を多摩川沿岸に面して眺望は広くひらけている。当時の土塁の跡は現在でも残っており堀割の跡も現存している。
立川氏は武蔵七党の一つである西党日奉氏の支族で、立川宮内大夫宗恒がこの地にはじめて居城を構えたという。立川氏は天正の頃断絶したと思われ、それ以降寺域となった。なお当寺の建立は文和2年(1353)立川宗恒である。なお、同寺境内の首塚は、不揃な五重...
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2008/05/13 06:58 |
鈴法寺跡(青梅市新町)
都旧跡 鈴法寺跡
所在 青梅市新町364番地2
指定 昭和45年8月3日
鈴法寺は普化宗本寺の一つとして武蔵幸手の藤袴村に創設され、天文元年(1532)川越付近の葦草村に移った。慶長18年(1613)、住持月山養風は、新町村を開拓した吉野織部之助と同じ忍藩士であった関係から、寺を新町村に再度移転した。徳川幕府は普化宗を庇護し、全国120余個所の普化宗寺院は鈴法寺を本寺としたため、明治4年10月の普化宗廃止まで栄えたが、明治28年に焼失、その東北隅に歴代住持の墓10基が残るにすぎない。
...
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2008/05/13 06:56 |
金井原古戦場(小金井市中町)
碑文には、
史蹟
昭和十二年二月東京府指定
金井原古戦場
正平七年新田義興義宗等
足利尊氏ト此 ノ地ニ戦フ
昭和三十四年十二月
小金井市これを建てる
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2008/05/12 06:04 |
分倍河原古戦場(府中市分梅町)
東京都指定旧跡
分倍河原古戦場
所在地 府中市分梅町2159 新田川分梅公園
指 定 大正8年10月
文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘3年(1333)5月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(5月11日)、さらに、久米川の戦で...
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2008/05/12 05:59 |
大塚古墳(あきる野市雨間)
都旧跡 大塚古墳
所在 あきる野市雨間字塚場232番地
指定 大正15年5月
秋留台地にそびえるこの大塚古墳はほとんど円墳の形をなしているが、築造当時には方墳ではなかったかと思われる。この台地は古代奈良時代における官牧の一つで「小川牧」と呼ばれ、武蔵国の有数な官牧であった。古代末期に活躍する武蔵七党はこれら官牧と深い関連をもち、官牧の支配によって活躍の裏付けがなされていたのである。秋留台地には多くの古代住居遺跡が見られ、特に瀬戸岡古墳群(都旧跡)は律令制社会におけるものとして著名である...
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2008/05/11 14:08 |
初沢城址(八王子市初沢町)
JR中央線高尾駅南の丘陵、多摩の横山の西隅に、武蔵七党の名族西党の雄、横山党の豪族椚田太郎が築城した山城初沢城址がある。城主椚田太郎重兼は建暦3(1213)年5月、鎌倉幕府と戦った和田義盛の乱に組したところから殺され、そのためこの城址一帯の荘は、鎌倉幕府の重臣大江広元にあたえられた。初沢城址の丘陵部の雑木林のなかに空濠がみられ、高台のところに本丸がある。ここからの展望は高尾、小仏の山脈がつづき、甲斐、相模の境をみわたせる。城址の下方の搦手は高尾の山に接し初沢川が谷を刻んでいる。初沢川の谷地に...
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2008/05/05 14:51 |