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東京都指定旧跡 久米川古戦場 所在地 東村山市諏訪町二丁目付近 指 定 大正八年十月 北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永八年(1271年)の日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き…」とあって、上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった。 『太平記』によれば、元弘三年(1333)五月八日、群馬県新田町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のため挙兵した新田義貞の軍勢は、十一日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉軍を破り、翌十二日に南下した新田義貞と鎌倉幕府軍との第二戦が行われたのがこの周辺一帯であるといわれている。『江戸名所図会巻四』によると、久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き旗をたてたといわれる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約90メートルの八国山は、駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)の八か国の山が眺められるのでこの名がついたといわれている。 久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武二年(1335)の中先代の乱や応永二十三年(1416)と同二十四年(1417)の上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が進み当時の景観は偲ぶべきもない。 国の重要文化財『元弘の板碑』は、八国山山麓にあったものを文化年間(1804〜18)に、臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏訪町1-26)に移したものである。 平成十年三月 建設 東京都教育委員会 |
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